こんにちは、えばです。
この記事をご覧いただきありがとうございます!
この記事では、上の記事にて説明した選手のうち、ラリー・バード~デイブ・コーウェンスについて書いていきます。
ぜひ上の記事も合わせてご覧いただけたらと思います。
NBA史上最も偉大な75選手
ラリー・バード(SF)
ラリー・バードは、ボストン・セルティックスで13シーズンプレー。
彼は史上最高のSFの1人であり、史上最高の選手の1人です。
誰がNBAの歴代選手トップ10を作っても確実に入ってくる選手です。
実際にESPNの歴代選手ランキングでも7位にランクインしています。
バードはキャリアの大半をロバート・パリッシュとケビン・マクヘイルとともに過ごします。
彼らはNBA史上最高のフロントコート軍団ともいわれています。
(※フロントコートとは、フォワードとセンターの選手をまとめたもの。
バードはSF、マクヘイルはPF、パリッシュはCだった)
彼ら以降たくさんの素晴らしいフロントコートメンバーを擁するチームはありましたが、今でも彼らが史上最高のフロントコートだと思います。
バードは1979-1980シーズンにドラフト入団しますが、その1シーズン前の1978-1979シーズンのセルティックスはとても苦戦を強いられていました。
チームは29勝53敗の成績で、イースト9位でシーズンを終えました。
(この時代はイーストウエストともに10チーム、計20チームだった)
イースト10チーム中9位なので、どれだけ苦戦していたかがわかると思います。
(※参照:1978-79 NBA Season Summary | Basketball-Reference.com)
バードが入団した1979-1980シーズン、バードの活躍によりチームは61勝21敗の成績を収めました。
(※参照:1979-80 NBA Season Summary | Basketball-Reference.com)
そのシーズン彼は新人王に輝き、ルーキーながらオールNBAファーストチームにも選出されました。
この次の1980-81シーズン、史上最高のフロントコート軍団を形成することになる、パリッシュをトレードで、マクヘイルをドラフトで獲得。
以降バードとセルティックスは輝かしい成績を収めていくことになります。
そして1992年のバルセロナ五輪で「ドリームチーム」の一員として金メダルの獲得に貢献したバードは、五輪後に引退を発表しました。
バードとマジックジョンソンのライバル関係は非常に有名で、1980年代は彼らの世代でした。
ともに優勝を経験しており、NBAの人気に火をつけることになる関係でした。
バードは怪我で、マジックは病気で早くに引退することになりましたが、彼らが健康で居続けたらどういう成績を収めたのか気になるところです。
主な受賞歴
- 優勝:3回
- ファイナルMVP:2回
- MVP:3回
- オールスター:12回
- オールスターMVP:1回
- オールNBAチーム:10回
- オールディフェンシブチーム:3回
- 新人王(1980)
- オールルーキーチーム(1980)
- 3ポイントコンテストチャンピオン:3回
- 50-40-90クラブ(※1):2回
(参照:ラリー・バード - Wikipedia)
(※1:50-40-90クラブとは、FG成功率が50%以上、3P成功率が40%以上、フリースロー成功率が90%以上を1シーズンで記録すること。
これを記録したことのある選手は歴代でも9人しかいない)
コービー・ブライアント(SG)
コービー・ブライアントは、ロサンゼルス・レイカーズにて20シーズンプレー。
特に試合終盤、勝負が競っている時に圧倒的な強さを発揮することから、「ブラックマンバ」の愛称で知られています。
(※ブラックマンバとは、蛇の一種で、非常に強い毒を持っている。
致死率が非常に高く、未治療であれば死亡率は100%)
彼は歴代屈指のスコアラーです。
1試合で81得点を取ったこともあり、この記録はNBA史上2番目の記録です。
(1位はウィルト・チェンバレンの1試合100得点)
彼はマイケル・ジョーダンをリスペクトしていて、彼のようなプレースタイルをする選手でした。
フェイントのかけ方、シュートの打ち方、得点の取り方。
オフェンスだけでなくディフェンスも熱を入れる姿。
どれをとってもマイケル・ジョーダンのような選手でした。
NBAでは「ネクストジョーダン」と言われる選手が多数存在しました。
アレン・アイバーソン、レブロン・ジェームズ、ドウェイン・ウェイド、ビンス・カーター、トレイシー・マグレディ…。
多くの選手が「ネクストジョーダン」と言われてきましたが、おそらくコービー以上にジョーダンと比較され続けた選手はいないと思います。
コービーの「マンバメンタリティ」の精神は、多くの未来のNBA選手に影響を与えました。
現役選手でもコービーの影響を受けている選手は多くいます。
ケビン・デュラントやステフィン・カリー、カワイ・レナードなど多くの現役のNBAスーパースターは、
「コービーは僕らにとってのジョーダンだった」
と話すほど、彼らにも影響をたくさん与えてきました。
(※参照:コービー・ブライアント - Wikipedia)
アメリカ代表としては、2008年の北京五輪と2012年のロンドン五輪での金メダル獲得に大きく貢献しました。
彼がレイカーズで付けた8番と24番は永久欠番となりました。
彼は2020年1月26日にこの世を去りました。
次女のジアナなど9人が乗ったヘリコプターが墜落事故を起こし、搭乗者全員が無くなるという悲惨な事故でした。
そんな1月26日に行われたNBA8試合では、すべての試合で追悼セレモニーが行われました。
また、試合開始後には両チームが意図的に24秒バイオレーションや8秒バイオレーションを追悼としてささげました。
(コービーは8番と24番をレイカーズで着用していた。)
2月24日には追悼式が行われ、マイケル・ジョーダンやシャキール・オニールなどのレジェンド選手は彼へのスピーチを行いました。
引退後は監督などの立場でNBAに貢献してほしいと願っていましたが、それもかなわず…。
ご冥福をお祈り申し上げます。
主な受賞歴
- 優勝:5回
- MVP:1回
- ファイナルMVP:2回
- オールスター:18回
- オールスターMVP:4回
- オールNBAチーム:15回
- オールディフェンシブチーム:12回
- 得点王:2回
- オールルーキーチーム(1997)
- スラムダンクコンテスト優勝:1回
ウィルト・チェンバレン(C)
ウィルト・チェンバレンは、
- フィラデルフィア(サンフランシスコ)・ウォーリアーズ(現GSW)
- フィラデルフィア・76ers
- ロサンゼルス・レイカーズ
で、計14シーズンプレー。
1960-1970年代にかけて、リーグのトップクラスの選手として活躍しました。
中でも得点とリバウンドはNBAでも類を見ないほどの実力を持っていました。
1試合100得点の記録はおそらく今後も破られることはないでしょう。
また、7回の得点王と11回のリバウンド王に合わせ、センターとしては珍しくアシスト王を1回獲得しています。
彼は3チームすべてで背番号13を着用していましたが、彼が所属した3チームすべてで13番は永久欠番となっています。
彼はルーキーシーズンから大活躍。
平均37,6得点を記録し、新人王とシーズンMVPを同時受賞しました。
新人王とMVPを同時受賞した選手は、NBA史においてチェンバレンとウェス・アンセルドの2人のみです。
また、ルーキーながら上記の二つに加え、得点王とリバウンド王、オールスターMVPを獲得。
彼の存在はNBAの常識を大きく覆してしまいました。
彼のキャリアの中でも異常だったのは3年目のシーズンでした。
彼は平均50,4得点を記録し、3年連続の得点王に輝きました。
シーズン平均50点以上を記録したのは、NBA史上彼のみです。
またこのシーズン彼は1試合で100得点を記録しました。
この試合では残り46秒を残した状態でチェンバレンが100点目を記録、それに興奮した観客がコートになだれ込み、試合はそのまま終了してしまいました。
(※参照:Wilt Chamberlain's 100-point game - Wikipedia)
彼のキャリアを語るうえで欠かせないのが、「ビル・ラッセルとセルティックスの壁」です。
チェンバレンはプレーオフまでは順調に勝ち進むのですが、プレーオフではどうしてもセルティックスに優勝を阻まれてしまいます。
そんなセルティックスで当時センターを務めていたのがビル・ラッセルです。
とにかくチェンバレンはラッセルとセルティックスに優勝を阻まれ、キャリアで2度の優勝にとどまりました。
(ちなみにラッセルは11回優勝した)
主な受賞歴
- 優勝:2回
- ファイナルMVP:1回
- MVP:4回
- オールスター:13回
- オールスターMVP:1回
- オールNBAチーム:10回
- オールディフェンシブチーム:2回
- 新人王(1960)
- 得点王:7回
- リバウンド王:11回
- アシスト王:1回
(※参照:ウィルト・チェンバレン - Wikipedia)
ボブ・クージー(PG)
ボブ・クージーは、ボストン・セルティックスにて13シーズンプレー。
(1度目の引退後シンシナティ・ロイヤルズで短期間選手兼監督として1シーズンプレー。)
彼は現在のポイントガードの元祖のような存在の選手でした。
見ている方向とは違うところに出す「ノールックパス」を実践で取り入れたのが彼です。
後のピート・マラビッチやマジック・ジョンソンのスタイルの先駆者ともいえる選手です。
ただ、彼のこのプレースタイルは当時はあまり万人受けするものではありませんでした。
この時代はあまり派手さを求められておらず、大学時代には派手さが不必要だとして出場時間を多くもらえないこともありました。
クージーは得点能力が高く、アシスト能力も高い選手でした。
PGの完成形の選手と言っても過言ではないかもしれません。
キャリアの途中でビル・ラッセルが加入しますが、ラッセルは特にディフェンス面に秀でた選手でした。
そのため当時のセルティックスは、オフェンス面をクージーが、ディフェンス面をラッセルが受け持つようなチームでした。
この体制が功を奏し、1956年-1963年までの7年で6回も優勝を果たしました。
彼がつけていた背番号14は、セルティックスの永久欠番となっています。
主な受賞歴
- 優勝:6回
- MVP:1回
- オールスター:13回
- オールスターMVP:2回
- オールNBAチーム:12回
- アシスト王:8回
(※参照1:Bob Cousy | Boston Celtics | NBA.com)
(※参照2:ボブ・クージー - Wikipedia)
デイブ・コーウェンス
デイブ・コーウェンスはボストン・セルティックスで10シーズン、1度目の引退を挟んでミルウォーキー・バックスで1シーズンプレー。
1970年代のNBAを代表するセンターの1人です。
彼はルーキーイヤーから活躍を見せ、平均17点15リバウンドの成績を残し、新人王を獲得しました。
彼が全盛期を迎えたのは3年目のシーズンでした。
平均20,5得点、16,2リバウンドの成績を残し、チームは68勝14敗、勝率8割2分4厘を残しました。
この勝率は後にも先にも達成されていない、セルティックスのフランチャイズ記録となっています。
彼はこの年シーズンMVPを獲得したにもかかわらず、オールNBA2ndチームに選出されました。
(※MVPを取る選手は基本的には1stチームに選ばれる。
2ndチームにMVP選手が選出されるのは史上2度目だった)
彼は1976年にバスケへの熱が冷め、成績を軒並み落としてしまいます。
彼の成績低下とともにチームの成績も低下し、プレーオフにすら進出できませんでした。
その後1980年に1度目の引退を発表しました。
1982年に元チームメイトのドン・ネルソンの依頼の元、ミルウォーキー・バックスにて選手復帰をします。
チームをカンファレンスファイナルまで導き、シーズン終了後に再度引退を発表しました。
彼がつけた背番号18は、セルティックスの永久欠番となっています。
主な受賞歴
- 優勝:2回
- MVP:1回
- オールスター:8回
- オールスターMVP:1回
- オールNBAチーム:3回
- オールディフェンシブチーム:3回
- 新人王(1971)
(※参照:デイブ・コーウェンス - Wikipedia)