この記事は上で紹介した全76選手のうち、モーゼス・マローン~ボブ・マカドゥーまでの4選手を紹介していきます。
ぜひ最後までお読みいただけたらと思います。
また上の記事にはこの記事以外の説明記事も貼ってありますので、そちらも合わせてお読みいただけたら嬉しいです。
NBA史上最も偉大な75選手
モーゼス・マローン(C)
モーゼス・マローンは、
- ユタ・スターズ(ABA)
- スピリッツ・オブ・セントルイス(ABA)
- バッファロー・ブレーブス(現ロサンゼルス・クリッパーズ)
- ヒューストン・ロケッツ
- フィラデルフィア・76ers
- ワシントン・ブレッツ(現ウィザーズ)
- アトランタ・ホークス
- ミルウォーキー・バックス
- サンアントニオ・スパーズ
で計20シーズンプレー。
彼はNBA史上もっとも偉大な選手の1人ながら、最も過小評価されている選手の1人でもあります。
彼は特にリバウンドが強い選手で、
「Chairman of the Board (ゴール下のチェアマン)」
という愛称で呼ばれていました。
また彼は1995年に引退するのですが、彼の引退をもってABAでプレー経験のある選手が現役からいなくなりました。
マローンはユタ・スターズに入団したルーキーシーズンから活躍。
平均18,8点、14,6リバウンドという成績を残すものの、新人王は獲得ならず。
(新人王は平均24,0点、15,6リバウンドというリバウンドを残したマーヴィン・バーンズ)
このシーズンマローンはABAのオールスターゲームに出場。
ルーキーながらゴール下の支配力を見せたシーズンとなりました。
キャリア3年目の1976-77シーズン、ABAの解体によりマローンはブレーブスに移籍。
そこで2試合に出場した後、ロケッツへの移籍が決まりました。
マローンはこのシーズン、平均13,5点、13,4リバウンドと思ったよりも成績を残すことができませんでした。
ただチームは49勝33敗という成績を残しプレーオフに進出。
カンファレンスファイナルで敗退するものの、ロケッツは強豪チームへの仲間入りを果たしました。
78-79シーズン、平均24,8点、17,6リバウンドを残しリバウンド王を獲得。
マローンはシーズンMVPを受賞しました。
プレーオフでは初戦敗退するものの、マローンが76ersへ移籍する82-83シーズンまでロケッツはプレーオフに連続出場を果たします。
80-81シーズン、平均27,8点、14,8リバウンドでリバウンド王を獲得。
プレーオフでも平均26,8点、14,5リバウンドを残しロケッツをファイナルに導きます。
ファイナルではラリー・バード率いるセルティックスと対戦し、2勝4敗で優勝とはなりませんでした。
翌81-82シーズンは平均31,1点、14,7リバウンドを残しリバウンド王とシーズンMVPを受賞。
シーズン終了後に76ersへと移籍が決まりました。
76ersの一員として迎えた82-83シーズン、平均24,5点、15,3リバウンドで3年連続リバウンド王を獲得。
チームも65勝17敗という成績を残し、マローンはシーズンMVPを2年連続で受賞しました。
マローン入団前の76ersは、ファイナルまでは進むものの優勝にはあと一歩届かないチームでした。
ただこのシーズンはマローンの活躍もあり、見事ファイナルではレイカーズをスウィープ(4勝0敗)で下して優勝。
マローンは平均26,0点15,8リバウンドを残しファイナルMVPを受賞。
シーズンMVPとファイナルMVPを同時受賞した史上3人目の選手となりました。
マローンはその後、85-86シーズン終了後にブレッツへとトレードされます。
ブレッツでもセンターを務め、平均20点以上の得点、11本以上のリバウンドを2シーズン続けて記録します。
チームを2シーズンともにプレーオフに導くものの、プレーオフでは2シーズン連続初戦敗退。
87-88シーズン終了後にホークスに移籍することになりました。
アトランタ移籍後は徐々に衰え始め、平均点・リバウンドを含めスタッツを徐々に落としていきます。
88-89~90-91シーズンまでの3シーズンをホークスで過ごした後、バックスへ移籍。
その後バックスで2シーズン、76ersで1シーズン、スパーズで1シーズン過ごし94-95シーズン終了後に引退。
1996年にはNBA50周年を記念したNBA史上もっとも偉大な50選手に選出。
ロケッツ時代につけた背番号24と、76ersで付けた背番号2はそれぞれ永久欠番となりました。
マローンはチャールズ・バークレーのキャリアに最も大きな影響を与えた選手でした。
マローンとバークレーは84-85シーズン、85-86シーズンの2シーズンを76ersでともに過ごしました。
バークレー曰く、
「マローンのトレードが自分のフィラデルフィアでのキャリアを台無しにした」
とまで話しています。
(※参照:チャールズ・バークレーが「シクサーズでのキャリアを台無しにしたのはモーゼス・マローンのトレード」 | NBA SWEETDAYS -最新ニュースやハイライト動画ブログ)
確かにマローンもバークレーも身長は決して高くないながらも、ゴール下を支配しリバウンドを多くとる選手でした。
バークレーにとってマローンは師匠のような存在だったことでしょう。
主な受賞歴
- 優勝:1回
- ファイナルMVP:1回
- シーズンMVP:3回
- オールスター:12回(ABAを含めると13回)
- オールNBAチーム:8回
- オールディフェンシブチーム:2回
- リバウンド王:6回
- ABAオールタイムチーム(1997)
(※参照:モーゼス・マローン - Wikipedia)
カール・マローン(PF)
カール・マローンは、
- ユタ・ジャズ
- ロサンゼルス・レイカーズ
で計19年プレー。
彼は長い期間にわたって高水準のパフォーマンスを維持した歴代屈指のPFです。
通算得点は36928点で、これはNBA史上3番目の記録となっています。
(1位はジャバー、2位はレブロン)
「the Mailman」の愛称で知られた、NBAのレジェンドです。
マローンはルーキーシーズンとレイカーズでのキャリア最終年を除き、すべてのシーズンで平均20点以上を記録。
2年目には平均21,7点、10,4リバウンドを記録。
3年目は平均27,7点、12,0リバウンドと成長を見せます。
このマローンの得点と切っても切れないのがジョン・ストックトンの存在です。
PGのストックトンとPFのマローンのデュオは強力で、特にピック&ロールからの得点が非常に多いコンビでした。
マローンがストックトンにスクリーン(ピック)、ストックトンとマローンについているディフェンスを入れ替えさせます。
こうしてマローンのところにPGをつかせ、体格差のミスマッチを生み出します。
そのままマローンはゴールしたへ、ストックトンからのパスを受け得点。
このパターンが非常に多いデュオでした。
そのため、マローンの得点が伸びるとともにストックトンのアシスト数も伸びていきました。
その後マローンは89-90シーズンに平均31,0点、11,1リバウンドを記録。
ただこの年、ジョーダンが平均33,6点を挙げており得点王は獲得ならず。
チームは55勝27敗の成績でプレーオフに進むものの、初戦でサンズに敗退。
シーズンではいい成績を残すものの、プレーオフではなかなか勝てないという状態が続いていました。
マローンは92年のバルセロナ五輪に「ドリームチーム」の一員として参戦。
シーズンでもマローンは平均25点以上、10本以上の成績を安定して残すものの、チームはなかなか勝てず。
プレーオフには進出するものの、ファイナルには届かない状態が続きました。
96-97シーズン、平均27,4点、9,9リバウンド、チーム成績64勝18敗の成績を残し、マローンはMVPを獲得。
ジャズはシーズンの勢いそのままにプレーオフでも勝ち進み、ようやくファイナルに進出します。
ファイナルでは5度目の優勝を狙うジョーダン率いるブルズと対戦。
ジャズは健闘むなしく第6戦で敗退。
マローンは惜しくも初優勝とはなりませんでした。
翌97-98シーズンもジャズはファイナルに進出。
ファイナルでは再度ジョーダン率いるブルズと対戦しまたもや敗退。
このシリーズではジョーダンの「ラストショット」が有名となっています。
結果的にジョーダンに2度目の3連覇を目の前で達成されてしまいました。
マローンは90年代に20925点稼ぎ、90年代で最も多く得点を挙げた選手になりました。
2位は16178点だったため、マローンがいかに安定して多くの得点を挙げていたのかがわかる数字です。
99-00、00-01、01-02シーズンはレイカーズの王朝時代でした。
ジョーダンの引退、コービーとシャックのデュオ結成などもあり、レイカーズは向かうところ敵なしの状態に。
この3シーズンすべてでレイカーズはファイナルを制し、3連覇を達成しました。
マローンは衰えが見え始めており、得点も20点前後に。
ジャズもプレーオフまでは進むものの、優勝には届きませんでした。
その後02-03シーズン終了後にストックトンが引退。
マローンは悲願の初優勝を目指しレイカーズに移籍します。
迎えた03-04シーズン、レイカーズには
- コービー・ブライアント
- シャキール・オニール
- カール・マローン
- ゲイリー・ペイトン
と錚々たるメンツが勢ぞろいしており、優勝は間違いないだろうと思われていました。
ただこの年、マローンは怪我で約半分の試合を欠場、コービーとシャックの大きな溝などが響き、ファイナルでピストンズに敗退してしまいます。
マローンはコービーとの確執もあり、レイカーズとは再契約を望まず。
そのまま2005年に現役を引退しました。
マローンがジャズで付けた背番号32はジャズの永久欠番になっています。
マローンは通算得点数が3位ながらも、1度も得点王を獲得したことがありません。
優勝も得点王も、すべてジョーダンに阻まれ続けたキャリアでした。
「ジョーダンさえいなければ」と個人的に感じてしまう選手の1人です。
主な受賞歴
- シーズンMVP:2回
- オールスター:14回
- オールスターMVP:2回
- オールNBAチーム:14回
- オールディフェンシブチーム:4回
- オールルーキーチーム(1986)
(※参照:カール・マローン - Wikipedia)
ピート・マラビッチ(SG)
ピート・マラビッチは、
- アトランタ・ホークス
- ニューオーリンズ/ユタ・ジャズ
- ボストン・セルティックス
で計10シーズンプレー。
彼は独創的なドリブル、パス、得点能力などでNBAを支配したSG。
後のマジック・ジョンソンやジェイソン・ウィリアムズなどの先駆けとなるような選手でした。
1970年のドラフトで全体3位でホークスに指名されたマラビッチ。
彼はルーキーながらチームをけん引し、平均23,2点、3,7リバウンド、4,4アシストを残しプレーオフに進出。
プレーオフではカンファレンス・セミファイナルでニックスに敗退しました。
2年目はよくある「2年目のジンクス」に苦しみ、平均19,3点と成績を落としました。
チームはプレーオフに進むものの、カンファレンス・セミファイナルでセルティックスに敗退しました。
3年目は平均26,1点、6,9アシストと軒並み成績を伸ばしました。
チームも46勝36敗と勝率5割以上を残しプレーオフに進出。
再度カンファレンス・セミファイナルでセルティックスに敗退してしまいました。
4年目には平均27,7点といい成績を残すものの、チームは35勝47敗でプレーオフを逃しました。
シーズン終了後、ニューオーリンズ・ジャズという新チームが設立され、地元の大学出身のマラビッチをトレードで獲得しました。
ただこのシーズンジャズは23勝59敗と苦しみ、マラビッチ自身も平均21,5点と苦しみました。
76-77シーズンには平均31,1点を挙げ得点王を獲得。
ただチームはマラビッチの活躍むなしく、35勝47敗でプレーオフ進出とはなりませんでした。
78-79シーズンにはひざの故障もあり、ベンチで過ごす時間が徐々に増え始めます。
翌79-80シーズンにジャズはユタへと移転しました。
ジャズはこのシーズン、エイドリアン・ダドリーというスコアラーを獲得したことで、マラビッチの出場時間はさらに減ってしまいました。
開幕2か月後にはマラビッチはジャズを解雇、セルティックスと契約しました。
セルティックスでも十分な出場時間は得られず。
シーズン終了後に引退を発表しました。
マラビッチは個人的な能力や業績は素晴らしいが、チームを勝たせるような選手ではないと常に批判されていました。
確かに、ホークスでの4シーズン、ジャズでの6シーズンのうち、勝率が5割を超えたのは72-73シーズンのホークスでのみ。
プレーオフはホークス時代に3度出場したものの、すべてカンファレンス・セミファイナルで敗退。
マラビッチ自身はいい成績を残すものの、チームは勝てない。
少し悪く言えば、「弱小チームのエース」というようなキャリアでした。
(※参照1:アトランタ・ホークス - Wikipedia)
(※参照2:ユタ・ジャズ - Wikipedia)
彼がホークスで付けた背番号44、ジャズで付けた背番号7は永久欠番になっています。
また、ニューオーリンズ・ホーネッツ(現ペリカンズ)はマラビッチの死後ニューオーリンズに移転したチームですが、地元での活躍をたたえ背番号7を永久欠番にしています。
主な受賞歴
- オールスター:5回
- オールNBAチーム:4回
- オールルーキーチーム(1971)
- 得点王:1回
(※参照:ピート・マラビッチ - Wikipedia)
ボブ・マカドゥー
ボブ・マカドゥーは、
- バッファロー・ブレーブス(現ロサンゼルス・クリッパーズ)
- ニューヨーク・ニックス
- ボストン・セルティックス
- デトロイト・ピストンズ
- ニュージャージー・ネッツ(現ブルックリン)
- ロサンゼルス・レイカーズ
- フィラデルフィア・76ers
で計14シーズンプレー。
彼は1972年のドラフト2位でブレーブスに指名されました。
彼の全盛期は2年目の73-74シーズンからニックス最終年の78-79年くらいまで。
1年目にも活躍し、平均18点、9,1リバウンドで新人王を獲得。
その後2・3・4年目はすべてで平均30点以上の得点、12本以上のリバウンドの成績を残し、3年連続で得点王を獲得しました。
中でも74-75シーズンには平均34,5点、14,1リバウンドでシーズンMVPも受賞しました。
81-82シーズン前にはレイカーズに移籍。
ベンチメンバーとして「ショータイム・レイカーズ」を支え、81-82、84-85シーズンの優勝に貢献しました。
その後85-86シーズンは76ersでプレーし、シーズン終了後イタリアのプロリーグに活躍の場を移しました。
イタリアでは7年間プレーした後、引退しました。
マカドゥーは1996年に発表された「NBA史上偉大な50選手」には選出されず。
この発表より前にMVPを受賞していた選手の中で唯一選出されませんでした。
ただ2008年の「ユーロリーグ史上偉大な50選手」には選出されました。
1995年~2014年まではヒートでアシスタントコーチを務めました。
2006年のウェイド・シャック時代、2012・2013年のBIG3(ウェイド・レブロン・ボッシュ)の時代に計3度の優勝を経験しました。
主な受賞歴
- 優勝:2回
- シーズンMVP:1回
- オールスター:5回
- オールNBAチーム:2回
- 新人王(1973)
- オールルーキーチーム(1973)
- 得点王:3回
(※参照:ボブ・マカドゥー - Wikipedia)