この記事は、上の記事で紹介した76選手のうち、ティム・ダンカン~ウォルト・フレイジャーまでの5選手の説明をしていきます。
ぜひこの記事は上の記事、上の記事に貼ってあるほかの記事も合わせてお読みいただけたらと思います。
NBA史上最も偉大な75選手
ティム・ダンカン(PF)
ティム・ダンカンは、サンアントニオ・スパーズで19シーズンプレー。
ダンカンはNBA史上最高のPFです。
歴代NBA選手でスタメンを組むとなった時、多くの人がダンカンをPFに入れるほど、PFとして完成度が高く完璧な選手でした。
ダンカンはスパーズにドラフト1位で入団しますが、スパーズは当時から強豪チームでした。
ではなぜ強豪チームがドラフト1位を引き当てたのか。
表向きは当時のエースだったデイビット・ロビンソンがシーズンを全休し、チームは20勝62敗という成績しか残せなかったからです。
NBAでは、前年に成績が悪かったチームのほうがドラフト上位を引ける確率が高いようになっています。
そのため、前年いい成績を残せなかったスパーズがドラフト1位指名権を獲得できたのはあまり不自然ではありません。
ただスパーズがドラフト1位指名権を獲得できたのには裏があると言われています。
スパーズはどうしてもダンカンを獲得したがっていました。
そこで、エースのロビンソンをシーズン全休させ、チームの成績をわざと落とさせたのではないか?という理由が噂されています。
何はともあれダンカンを獲得したスパーズは、ダンカンとロビンソンのツインタワーを形成します。
ダンカンはロビンソンからNBAで活躍するノウハウを学び、ロビンソンはダンカンのおかげで諸々の負担を軽減でき、双方に大きな影響を与えました。
ダンカンは入団当時からスター選手でした。
1年目はすべての月で月間新人賞を獲得、コーチ推薦でオールスターにも出場しました。
その後新人王にも選ばれ、オールNBA1stチーム、オールディフェンシブ2ndチームに選出。
新人がオールNBA1stチームに選ばれるのは、ラリー・バード以来の快挙でした。
ダンカンはあまり派手なプレーはせず、まるでベテランのようなプレースタイルでした。
相手との距離が開けば着実にシュートを決め、近ければ相手を抜きゴール下のシュートを決める。
基本にとても忠実な選手で、「当たり前のことを当たり前に」というものの具現化のような選手でした。
ダンカンがNBA入りしたころ、NBAのPFには多くのスター選手がいました。
チャールズ・バークレー、カール・マローン、クリス・ウェバー、ダーク・ノビツキー、ケビン・ガーネット、ラシード・ウォーレス…。
多くのスター選手がいましたが、ダンカンはそんな彼らを抑えてルーキーから8年連続でオールNBA1stチームに選出。
キャリアを通じて、優勝5回、シーズンMVP2回、ファイナルMVP3回などという実績を残したPFはおらず、
「史上最高のPF」
であることはもはや議論の余地もありません。
ダンカンは抜群のバスケIQの持ち主で、リーグトップクラスのスコアラー、リバウンダー、ブロッカー、リーダーでした。
ダンカンがスパーズにいた1997-1998~2015-2016シーズンまで、スパーズは全シーズンで勝率6割以上を記録。
この記録はNBA全30チームの中で唯一の記録でした。
決して派手なプレーはせず、基本に忠実にプレーしチームを勝利に導く。
この姿は今後バスケをするすべての人に学んでほしい姿勢だなと思います。
彼がスパーズで付けた背番号21は永久欠番となっています。
主な受賞歴
- 優勝:5回
- ファイナルMVP:3回
- シーズンMVP:2回
- オールスター:15回
- オールスターMVP:1回
- オールNBAチーム:15回
- オールディフェンシブチーム:15回
- 新人王(1997)
- オールルーキーチーム(1997)
(※参照:ティム・ダンカン - Wikipedia)
ケビン・デュラント(SF) ※現役
ケビン・デュラントは、
- シアトル・スーパーソニックス(現オクラホマシティ・サンダー)
- オクラホマシティ・サンダー
- ゴールデンステート・ウォリアーズ
- ブルックリン・ネッツ
で計15シーズンプレーしている現役の選手です。
デュラントは史上最高のスコアラーの1人であり、史上最高のSFの1人です。
ルーキー時代から活躍を見せ、新人王を獲得したものの、苦しいシーズンにもなりました。
デュラントはNBA選手の中では明らかに線が細く、フィジカルがあまり強い選手ではありませんでした。
そのため、リバウンドは思うように取れず、シュートも最初は思うようには打てませんでした。
前半戦はFG%が3割台にまで沈んでおり、彼の武器でもあった3ポイントはほとんど打てず、ディフェンスの拙さまで露呈していました。
最終的には平均20,3点、FG43%までは成績を伸ばしたが、それでも苦しんだシーズンとなってしまいました。
2年目のシーズン、ソニックスはオクラホマへ移転、チーム名をサンダーへと変更しました。
このシーズンデュラントは大きな成長を見せます。
2年目ながらエースとして大活躍し、平均25,3点、6,5リバウンド。
この年は新人にラッセル・ウエストブルックがいて、彼とデュラントの今後への期待が高まっていました。
この期待は、次の2009-2010シーズンに最も高くなります。
デュラントと同じ年にドラフトされたジェフ・グリーン、この年にドラフトされたジェームズ・ハーデンなど、チームの核の選手が平均21,7歳という若さのチームを形成しました。
デュラントはこの年、平均30,1点、7,6リバウンドの成績を残し、史上最年少での得点王に輝きました。
このシーズンを含めてデュラントは5年で4度得点王を受賞するという快挙を成し遂げます。
オールスターにも出場し、MVP投票では2位、オールNBA1stチームなどに選出されました。
この年のサンダーは50勝32敗という成績でプレーオフへ。
1回戦で敗退してしまいましたが、圧倒的に若いチームだったので今後への期待が爆発していました。
その後着実にスーパースターへの階段を上った彼は、2016-17シーズンに当時王朝を築いていたGSWへ移籍します。
彼がGSWにいた3年間で2度優勝し、デュラントは2回ともファイナルMVPを獲得。
ウォリアーズは彼の功績に最大限のリスペクトをし、彼がつけていた背番号35を彼の引退後に永久欠番にすると発表しました。
現役の選手がすでに球団から永久欠番を約束されているのは非常に珍しいことです。
2019シーズン、彼はネッツへ移籍しエースとして活躍しています。
怪我が少し目立つようになりましたが、得点能力や勝負強さは健在です。
今後引退までにどういう成績を残していくかすごい楽しみな選手です。
主な受賞歴
- 優勝:2回
- ファイナルMVP:2回
- シーズンMVP:1回
- オールスター:12回
- オールスターMVP:2回
- オールNBAチーム:9回
- 新人王(2008)
- オールルーキーチーム(2008)
- 得点王:4回
- 50-40-90クラブ:1回
- オリンピックMVP:1回
(※参照:ケビン・デュラント - Wikipedia)
ジュリアス・アービング(SF)
ジュリアス・アービングは、
- バージニア・スクワイアーズ(ABA、現在はない)
- ニューヨーク・ネッツ(現ブルックリン)
- フィラデルフィア・76ers
で計16シーズンプレー。
彼はABA史上最高の選手の1人です。
ABA時代も含めたプロ16年間すべてでオールスターに選ばれた実力者です。
アービングのプレースタイルは多くの人に影響を与え、最も影響のあるバスケ選手の1人だと評されています。
ABAでのルーキーシーズン、彼は平均27,3点、15,7リバウンドの成績を残すも、新人王は別の選手に譲る形になりました。
プレーオフでも新人とは思えない活躍を見せ、平均33,3点、20,4リバウンドと大車輪の活躍を見せました。
2年目のシーズン、平均31,9点、12,2リバウンドの成績を残し得点王に輝きます。
この時点でABAのリーグトップ選手としての地位を確立します。
この年スクワイアーズは資金の問題でアービングをトレード、アービングはネッツ(当時はABAのチーム)に移籍しました。
ネッツでもアービングはエースとしてすぐに活躍しました。
平均27,4点、10,2リバウンドの成績で得点王を獲得、前年30勝54敗だったチームを55勝29敗という成績まで押し上げました。
この年ネッツはABAファイナルを制して優勝。
アービングはプレーオフMVP、得点王、シーズンMVPの3冠を獲得。
ABAで最も重要な選手としての地位を確立しました。
1975-76シーズン。
ABAはNBAに吸収合併されることがすでに決まっており、ABA内部は混乱状態となっていました。
そんな中でもアービングは変わらず活躍し、得点王・シーズンMVP・プレーオフMVPの3冠を2年連続で受賞。
ABAが無くなる最後までリーグトップの選手で居続けました。
そして1976-77シーズン。
ネッツはABAからNBAにリーグを変えるも、資金繰りの問題でアービングを放出。
アービングは76ersへ移籍しました。
アービングは環境が異なるリーグやチームへの適応を最優先にプレー。
平均21,4点8,5リバウンドとプロ最低の数字に終わるも、オールスターではMVPを受賞。
1979-80シーズンにはNBA35周年オールタイムチーム11人が発表され、アービングは現役選手としては2人のみ、元ABA選手としては唯一選出。
アービングはNBAでも地位を確立していました。
徐々に衰えを見せ始めたアービングは1986年に引退。
ファンに愛され、多くのNBA選手に影響を与えた輝かしいキャリアに幕を閉じました。
彼がネッツで付けた背番号32、76ersで付けた背番号6はそれぞれ永久欠番となっています。
主な受賞歴
- ABA優勝:2回
- ABAプレーオフMVP:2回
- ABAシーズンMVP:3回
- ABAオールスター:5回
- ABA得点王:3回
- NBA優勝:1回
- NBAシーズンMVP:1回
- NBAオールスター:11回
- NBAオールスターMVP:2回
(※参照:ジュリアス・アービング - Wikipedia)
パトリック・ユーイング(C)
パトリック・ユーイングは、
- ニューヨーク・ニックス
- シアトル・スーパーソニックス(現OKC)
- オーランド・マジック
で計17シーズンプレー。
ユーイングはニックス史上最高の選手と言っても過言ではありません。
というのも彼は、ニックスの通算得点、リバウンド、ブロック、スティールなどにおいて歴代最高の記録を持っており、今のところこの記録を塗り替えそうな選手はニックスにはいません。
ユーイングは元々ディフェンスに定評のある選手で、そこを一番評価されて1985年にドラフト1位でニックスに入団しました。
そして入団後、ケガで多くの試合を欠場したものの、平均20点9リバウンドの成績を残し新人王を獲得。
ここからオフェンス面にも磨きがかかっていきます。
1990年には平均28,6点にまで得点を伸ばし、オフェンスディフェンスともにリーグトップクラスの選手へと成長を遂げました。
チームの成績をはあまり振るわず、プレーオフは1988年と1989年にしか出場できませんでした。
ところが1991年、「ショータイムレイカーズ」を作り上げた名将パット・ライリーがニックスの監督に就任します。
ニックスではショータイムとは真逆で、地味で確実なディフェンスで相手を苦しめました。
ライリー就任以降チームの成績は急上昇し、1991~1995年まですべてでプレーオフに出場しました。
ただ、1991~93年までの3年間は、マイケルジョーダン率いるブルズに3年連続敗退。
94年はファイナルまで進むも、アキーム・オラジュワン率いるロケッツに敗退し優勝を逃しました。
1994-95シーズンもプレーオフで敗退、この年でライリーはチームを去りました。
翌1995-96シーズン以降もユーイングは変わらず活躍し、チームをプレーオフに導くものの、優勝に至ることはありませんでした。
これ以降ユーイングは徐々に衰え始め、生き生きした若手が出てきたニックスは2000年にユーイングを放出しました。
2000-2001シーズンはソニックスで、2001-2002シーズンはマジックでプレーした後に引退。
特にニューヨークのファンから愛されたユーイングのキャリアに幕を閉じました。
彼がニックスで付けた背番号33は永久欠番になっています。
主な受賞歴
- オールスター:11回
- オールNBAチーム:7回
- オールディフェンシブチーム:3回
- 新人王(1986)
- オールルーキーチーム(1986)
(※参照:パトリック・ユーイング - Wikipedia)
ウォルト・フレイジャー(PG)
ウォルト・フレイジャーは、
- ニューヨーク・ニックス
- クリーブランド・キャバリアーズ
で計12年プレー。
フレイジャーは特にディフェンスに優れていた選手でした。
1年目はそこまで非凡な選手ではなく、21,5分の出場で平均9,0点、4,2リバウンド、4,1アシストの成績でした。
ただ彼は2年目に大きな成長を見せ、頭角を現し始めました。
36,9分の出場で平均17,5点、6,2リバウンド、7,9アシストの成績を残し、特にオフェンス面で著しい成長を遂げました。
1971-72シーズンは40,6分の出場で平均23,2点の成績を残し、チーム1の平均得点を残す選手にまで成長しました。
ディフェンス面は入団後から評判通りの活躍を見せ、1969年から1975年まで7年連続でオールディフェンシブ1stチームに選出。
1973-74シーズンからスタッツに記録されるようになったスティールでは、ほぼ毎シーズン平均2本以上を記録。
オフェンス面の成長もあり、オールNBAチームには1970年から6年連続で選出。
オールスターにも1970-1977まで連続出場した。
彼がニックスで付けた背番号10は永久欠番になっています。
主な受賞歴
- 優勝:2回
- オールスター:7回
- オールスターMVP:1回
- オールNBAチーム:6回
- オールディフェンシブ1stチーム:7回
- オールルーキーチーム(1968)
(※参照:ウォルト・フレイジャー - Wikipedia)